この世の中で起こり得る事象の中でも十指に入る「幸せ」と言えば、

「パンチラ」

であるという事実に異論を唱える人はいないでしょう。かく言う私、朝日駿もパンチラに出逢う為に外出していると言っても決して大袈裟ではないと思います。

ここでひとつ「パンツであれば何でもいいのか?」と言うとその答えは「NO」と言わざるを得ません。

…あっ。

この話は最終的に良い話になるので(してみせるので)「あー…また駿さんパンチラの話か…」とブラウザを閉じたりしないで下さい。よろしくお願い致します。

例えば同じパンツでも地べたにあぐらをかいて座るコギャルから見えるパンツと、春風にスカートがなびいて見える女子高生のパンツ、どちらが価値のあるパンツかを考えれば明白です。素材は同じなのにシチュエーションの差で物の価値が変動するのです。駿さんくらいになるとどちらにもある程度の敬意を表する事も可能ですが、大抵の人は前者を「みっともない」「だらしない」に対して後者を「ありがたい」「可憐だ」「おお…神よ」という風に感じる筈です。

最近駿さんは悩み事があります。シンガーソングライターとして活動していて、そのシンガーソングライターの本質とは「自作曲の良し悪し」「演奏力や歌唱力…つまり表現力」に尽きる筈です。駿さんも、曲がりなりにもシンガーソングライターとして自分の曲や歌にある程度の自信を持ってステージに立たせてもらってます。ですがそれを聴いている、観ている人に毎回100%伝えられているのか?と疑問に思う事があるのです。それは集客力だったり物販の売り上げだったりすれば、お客さんの眼で分かる時もあります。

力不足を感じ、曲の歌詞やアレンジを再考したり、単純に歌の練習ギターの練習に精を出したりする訳ですが、どうやら「それだけではいけない」という事を痛感する日がしばしばあります。

同じパンツでも、見せ方で価値が変わるなら。同じ曲でも同様に、聴かせ方で価値が変わってくるじゃないか!という、文字に起こしてみると至極真っ当、だがそれを実感するのはなかなかに難しいひとつの結論に至った訳です。

人のライブを観てて「良い曲」よりも「良い曲の雰囲気」を出すのが上手い人が確かにいるな…と感じる事があります。思わず「けっ…かっこつけやがって」と悪態をついてみたりするのですが、ああ僕にはなんとなくそれが足りない気がする、と落ち込みます。

どれだけ必死に良い曲(だと自分で思う曲)を書いても歌っても、それを「効率よく」人に伝えなきゃ意味がない…意味がないと言うか曲が可哀想だなと思いました。

残念な事に僕はもう決して若くないのだから、残りの時間で僕は何が出来るかをもっと真剣に(今までも真剣でしたが)考えなければなりません。

もう少し頑張ってみようと思うので、温かく見守ってくれたら嬉しいです。というお話でした!





…ね?パンチラから始まったとは思えない話になったでしょ?